2010年12月05日

義の島−台湾・金門島の秘史と現代日本の忘我A−                 筆者:林天外

2.遠い憧憬

 松本は、養父母のもとで2歳頃から満洲で過ごし、少年期になって日本に帰国している。
 日本が敗戦後に大陸から引き揚げてきた在留邦人や復員兵たちが、生きて帰って来たことを口々に感謝する言葉を、少年期の松本は鮮明に記憶していた。

 「私が日本に帰ったのは昭和19年の秋で敗戦前のことですから、いわゆる戦後の引き揚げとは違います。でも、あの終戦当時の大陸からの日本人帰還者は皆、蒋介石には感謝しましたよ。尊敬といったほうがいいでしょうか。なにしろ、引き揚げ者や復員兵(筆者註:引き揚げは非戦闘員、復員兵は帰還した元軍人を意味する)が、みんなちゃんと食料と水筒、それに一枚の毛布を抱えて帰ってきたんですから。それに早かったですよ、中国からの引き揚げは。これは大陸の邦人を守って帰国させた蒋介石のお陰なんですよね。一方で、シベリア抑留されていた日本人のソ連からの引き揚げ者の人たちなんかは、もう悲惨そのものだった。ですから、私は子供でしたけれども、まわりの大人たちが蒋介石総統に敬意を表している様子が、よくわかりましたよね。私も、蒋介石のそういう軍人の誇りといいますか、「以徳報怨」(筆者註:徳をもって怨みに報いるという意味)という広い人間愛に満ちた義の精神に少年の頃からの憧れがあったのかもしれませんね。後に、孫文の大アジア主義も講演集を読みあさったりして、私も理論的に考えたりするようになるわけですけど、やはり子供の頃に感化されたアジア的な義の感性は、私の根っこにあると思います。」
 松本が回想のなかで証言するように、敗戦後の中国大陸在留邦人の引き揚げは蒋介石の大局的な国際政治感覚と果断なくしては実現し得なかった。
 太平洋戦争中の1943年11月22日、エジプトのカイロにおいて、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、そして中華民国政府主席である蒋介石によってカイロ会談がもたれ、この協議によってカイロ宣言が発表された。その内容は、日本の全面降伏を目しての軍事戦略、敗戦後の日本に対する政治的処遇の具体案を定めた、連合国軍の対日基本方針に関するマニフェストであった。
 この会談で蒋介石は、日本の国体についてルーズベルトから意見を求められ、天皇制存続の重要性を述べたのである。
蒋介石は明治末期、日本の陸軍士官学校の予備校に留学した経験を持つ。もとから日本と中国の共生関係の強化によって東アジアの和平が求められるという理念を抱いていた蒋介石による、日本が敗戦してもその国体は日本国民が自ら決定すべきとする民族自決の見解は、問われるまでもなく予め揺るぎがない持論であったと思われる。それは後述する蒋介石と根本博中将との義の機縁にも明らかであろう。
カイロ会談での、この蒋介石の意見にルーズベルトも同意し、その結果、日本は全面降伏という決定的な敗戦を余儀なくされながら、国体の原理でもある天皇制は維持されることになる。戦争において全面降伏させた相手国の、その国体原理が事前の協議で決定されたうえで庇護されたという例は、歴史的にも他に類を見ないと言っていいだろう。一方、希代の軍略家である蒋介石にとって、いずれ日本は東亜の繁栄に欠かせない隣人となるだろうことを予見していたとも言える。

そして、中国大陸からの戦後引き揚げが「紳士的」な政治的配慮のもとになされた裏には蒋介石のカイロ宣言への尽力に加えて、根本博中将の命懸けの決断があった。
1945年8月15日。日本の敗戦を告げる玉音放送を、根本中将は中国内蒙古張家口放送局で聞いた。根本中将は蒙疆(もうきょう)地区の軍司令官である。蒙疆(もうきょう)とは、中華民国山西省北部と、満洲に接する察哈爾(チヤハル)および綏遠(スイエン)、外蒙(蒙古人民共和国)を除く内蒙地区のほぼ全域を指しており、およそ日本国土に匹敵する広大な面積を警備する駐蒙軍のトップが根本中将であった。
8月15日の6日前、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍の満洲全域への猛攻の報に触れていた根本中将は、すでに日本の敗戦を察知し、その日が来たときに果たすべき軍人としての命を覚悟していた。
日本の敗戦が決定された玉音放送の直後、根本中将は張家口放送局から全蒙疆地区にこう宣言した「わが軍は私の命令がない限り武器を捨てません。疆民、邦人、わが部下の生命は私が身命を賭して守り抜く覚悟です」。
つまり、敗戦と同時に武装解除をしなければならない日本軍人の根本中将は、これに従わずにソ連軍に徹底抗戦し、中国人を含める蒙疆住民を死守するというのである。この国際法をも無視した根本中将の決死の覚悟と駐蒙軍の死闘によって、多くの在留邦人、疆民の命が救われたのである。
カイロ会談での蒋介石と内蒙の根本中将、ふたりの軍人としての義の行いは、戦後日本史を語るときの始点としても過言ではないほどである。

少年期の松本もまた、外地から引き揚げてきた人々に仄聞した蒋介石への賞賛を通じて、アジアの遺伝子的な思想哲学としての義というものを、漠然とした憧憬の念として精神的に学んでいたのかもしれない。
なぜなら、興味深いことに後年の松本は、体得した中国武術を以て一時期地方都市で道場を開設したこともあったのだ。

日本の敗戦から30年後の昭和50年(1975)、松本はひとりの男と運命的な出会いを果たす。後に松本と共に戒厳令下の金門島に上陸することになる砂生記宜(さそうきよし)である。
昭和14年(1939)生まれの砂生は、松濤館空手の猛者で知られた拓殖大学空手部に籍を置き大学卒業後も空手との縁を切らなかった。さまざまな職を経ながらも武道を続け、30代半ばを過ぎたある日、砂生は「埼玉県川越に奇妙な技を使う男がいて、公園で数人を相手に武術を教えているらしい」との噂を聞いて足を伸ばした。
そこで見た松本の武術は日本の空手とは違う技で、砂生は非常に興味を抱いたという。
その後、砂生は松本を館長とした武術道場「興武館」を開くまでの盟友となるのだが、現在でも砂生は松本を「館長」と呼ぶ。
砂生が当時の松本の武術について語ってくれた。
 
「その公園での露天道場を見学に行きますと、館長は気さくに声をかけてくれまして、早速、教えて頂くことになったのです。組み手(空手の対戦稽古)を軽くという感じで館長とお手合わせとなったのですが、どうやっても私の拳が館長の体に届かない。途端に館長の掌が私の顔を遊びのように軽く叩くかと思えば、次の瞬間には背中を蹴られ金的を握られあっ≠ニ思う間もなく目の玉に指先が迫るという具合で、とにかく翻弄されておわりでした。もし館長がもろに力を込めたらと考えたら、ぞっとしましたよ。
そんなことがあって、私は館長が使う中国武術の虜になりまして、館長の弟子になったわけです」

砂生を翻弄した中国武術と、松本はどのように出会っていたのか。松本が自身の幼少期を披瀝してくれた。

「私が中国拳法と出会ったきっかけは、私の育った家の奉公人なんです。私が物心のつく頃には私の家にいた中国人の老人でしたが、庭の掃除や風呂焚きなどして家族同様に暮らしていました。養父とは深い関係のある人だったようですが、私には判りません。やさしい人で私は「爺ちゃん、爺ちゃん」と付き纏って離れなかった。それを周りが温かく見守ってくれた環境の中で、爺ちゃんが支那の踊りを丹念に教えてくれましたね。その踊りは呼吸法があって形と呼吸を合わせることがとても大変でした。とにかくそんな踊りを5歳から日本に帰るまでの年月毎日やってたのです。金火箸の握り部分に短い横棒を針金で結わいて、両手でくるくる回しながら踊る形が一番私は好きで、爺ちゃんは「うまい、うまい。」と褒めるから得意になってやったもんでした。後で判るのですが、釵(さい)の形でした。爺ちゃんとはわんわん泣いて別れました。私の一生忘れられない人なのです。爺ちゃんは義和の人だという話を聞いたことがあります。」

 松本が回想する「爺ちゃん」が「義和の人」というのであれば、その老人は義和団のメンバーであったと想像でき、そうであれば、「爺ちゃん」は5歳の松本に義和拳を教えていたことになる。
義和拳とは19世紀末に中国山東省平原県で栄えた中国武術の一派で、いまでは「幻の拳法」ともいわれる伝説的な拳法である。
義和団とは、もとは山東省の農民が自警団として組織されたといわれる結社だが、結成の初期は、別称を「義和拳」と呼ぶ程武術の練達した者らの集合体であったといってもよい。その形体は、中国武術の梅花拳(ばいかけん)が主流であった。ドイツが権益確保のために山東省に狙いをつけキリスト教の布教に重点をおいた。こうしたドイツの進出が民衆の排外的感情に火を付け、カトリック教会建設に端を発して民衆の暴動に連鎖し、民衆から支援を求められ梅花拳武術の流派が集合し民衆の怒りを支持した。
清の植民地化を計略した西欧からの浸食に対して清国内ではグローバリズムに対する敵対、即ち排外主義運動の先鋒に立って蜂起した民間人結社が義和団で、その武力こそが義和拳であった。
その後歴史ある梅花拳全体に累が及ぶことを避けるため梅花拳を「義和拳」と改名したといわれている。やがて反キリスト教運動が激しさを増す中に中国武術各流派が義和団に参加し、各武派の練達の士が義和団の参加者に必殺の拳を伝授し、やがて一撃必殺を目的とする完成された殺人を目的とする義和拳が確立された。
これらの時代背景に松本自身の「爺ちゃん」の想い出を照射すれば、松本が中国の老人から覚えた中国拳法が義和拳もしくは、その系譜に連なる武術であっても突飛な話ではないだろう。

砂生が松本の弟子となり、本格的に中国拳法を学び始めた頃に話は戻る。

「私も流派がどうというのは、あまり気になりませんでしたね。だって実際に強いわけですから。名より実です。館長も、当時から大陸的な感性といいますか、おおらかでしてね。こっちがまじめに稽古しているというのに、時折、一ヶ月や二ヶ月の間も留守にしてしまう。あとで判ったのですが、東南アジアを歩き回っていたんです。行く先々で拳法を鍛錬していたようですが、その後、私も館長にお供して台湾や香港を歩くようになったんです。
 そんな調子で、館長と私は公園や河原、冬場は道場の会員の農家の土間を借りての稽古を続けまして、2年ほどして川越の有志の力添えで道場を開けることになった。
道場を開く前に、館長は私を連れて台湾の台北で武當派唐手道の道場を持つ洪先生を訪ねました。館長は中年になって幼少時より習得した技を洪先生に手直ししてもらった関係で非常に親しくしていましたから、お世話になった先生ということで、日本で道場を開くことを報告しに行ったのです。
洪先生はとても喜んでくれましたが、私の前で館長に「貴方の拳は特殊な禁じ手ばかりで、非常な場合にしか使ってはならない拳だ。すっかり身についてしまった癖は直らない。初心者は、砂生が担当して、貴方は有段者からの担当とせよ」と言われたんですね。そのとき館長の姿は可哀相なほどしょげていました。
しかし、道場を開いた最初は「私が日本に行って手伝ってやろう」と、それは親切な言葉を洪先生から戴いて、館長もとても喜んでいたものです。
そうして道場を開きましたら次々と入門者があり館長も喜んでいましたが、入門者に教授するのは台湾から洪先生がお弟子を連れて御出になられる時か、それ以外は私が師範代を務め、あとは小川という男が助手を務めました。館長は一人ポツンとしていました」

砂生の証言によれば、松本の拳は非常に危険な「拳」で、少年期に基礎的な形と動作を身に付け、後にアジアを渡り歩きながら独学で習得する過程で染みこんだ「実戦」の拳法ということになる。いずれにしても、一般人が武道として修練に通う道場で教えられるようなものではなかった。
砂生はその拳の由来について、台北の洪氏に密かに尋ねたことがある。流派は気にならないといっていた砂生であったが、洪氏までが松本による指導を制限するほどの拳法とは何か、あらためて興味を増したのである。
洪氏によれば、松本の拳法は義和の拳ではないかという。さらに松本は、釵(さい)という武器の達人でもあった。釵は切っ先から握る柄まで入れて45p程の長さがある鉄製の武器である。

砂生は、釵を使った松本の死闘を目撃したことがある。

「道場を開いて1年ほど経ったある夜のことでした。
古参の者達が残ってそれぞれが型を練っていたところへ、40代後半の男が挨拶もなくぬっと入ってきた。それを見た館長が「おう」と声を掛けたのですが、男は黙って道場に上がり周囲を見回している。みんな黙って男の様子を見守るだけでした。
その男にはオーラが漂うというのか、一目で武術をやる人間だとわかる徒ならぬ雰囲気が立ちのぼっていました。館長とその男の間に、誰も入れぬ殺気がありました。
その男は道場の壁に掛けてある「棍」(こん=直径約5p・長さ約2mの棒)をはずすと、道場の中程に進み館長を待つのです。その間、男は棍を構え、棍の端を持ちビュッビュッと振り回したと思うと、スルッと棍の中心部分まで棍を滑らせ、今度はブンブンと両手で棍を回すのです。驚くべき手練に私は目を見張りました。
そして館長は上着と靴下を脱ぐと、釵を両手にして無言で相手の男に対峙しました。男が棍の先端を下段に構え、つっと前に動くと同時に館長が相手にぶつかっていった。時間にして何秒でもない、それこそ一瞬のことです。
館長は道場の床で左手を押さえてころげ回っている。相手の男は床にペタッと座り込んで左の脇腹を押さえ込んでいるのです。道場の者は誰も一歩も動けずにいます。
やっと館長は苦痛に顔を歪めながらも、左手の親指の付け根を押さえて立ち上がり、道場の羽目板に寄り掛かりました。
館長に「タオルを持ってきてくれ」と言われ、私がタオルを水に濡らしたのを絞って持っていくと、館長はタオルで左手をくるみ「奴を起こしてやってくれ」といいます。
私が相手の男の所へ行くと、彼は首を振って静かに立ち、道場の隅にあった段ボールの箱を指して「これ、もらう」と言うのです。そろそろ冬に入り、着替えの場所にストーブを設置したばかりの時で、そのストーブの空き箱が片付けるつもりで置かれていたのです。
「どうするのですか」と問うと、男は脇腹を指差し「折れた」という。肋骨が折れたと言っているのです。男の顔色はあまり変わってはなく、しっかり立っているのですが、館長の技が脇腹に入っていたんですね。
私は段ボール箱を鋏で切って、男の脇腹に当て木をして、道場に常備してある晒(さらし=帯状の布)で男の腰から胸をしっかり巻きました。その男は「アリガト。誰か駅まで乗せて」というので、館長を見ると「送ってやってくれ、おう、また会おう」と相手に声を掛けました。その男は笑って「もう会いたくない」と言うと、助手の小川の車に乗って帰って行ったのです。
たぶん、その男は東南アジア系の中国人でしょう。言葉の感じで日本人ではないことが判りました。館長のほうも、親指の付け根は骨が砕けていて、半年程ギブスをつけていました。館長は相手の男のことを一切口にしませんでした。二人に何か言い知れない過去があったのでしょう。
私も長いこと武道を鍛錬してきましたが、あれほど悽愴な、男の命を賭けた一瞬の決闘というのをこの目で見たのは、その一度きりです」

まさに拳法劇画の一幕のような劇的なエピソードであるが、中国文化や中国人とこのような数奇な邂逅を重ね、死闘を経てきた松本と門弟・砂生が、この数年後、かつて根本中将が命を懸けて守った金門島に降り立つことになるとは波瀾万丈を超えて、霊的な空気さえ感じさせるような実話ではないか。

松本と砂生が開いた道場中国武術「興武館」は4年という短い時間で門を閉じている。その理由は後述するが、それは同時に松本に金門島への扉が開かれた瞬間でもあったのだ。

(文中敬称略)
posted by AK at 23:20| ノンフィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。