2010年12月11日

義の島−台湾・金門島の秘史と現代日本の忘我B−                 筆者:林天外

3.義のある処

 中国共産軍と国府軍による国共内戦において、防戦一方に追い込まれ台湾にまで後退していた蒋介石総統に対して、旧日本軍将軍の根本博中将は、わずかでも力になりたい一心から、昭和24年(1949)に元部下の有志と共に決死の覚悟で台湾に密航した。
 それは日本の敗戦時に、中国大陸・蒙古地域に残留していた民間邦人4万人と北支那派遣旧日本軍35万人の将兵を無事に日本へ帰還させてくれた蒋介石の義に対して、根本が命を捨てても報いなければならない恩義への返礼であった。
 しかし、この根本の行いは一文で著わせられるほど簡単なものではなかった。
当時の日本では占領軍総司令官ダグラス・マッカーサーによって、旧軍人こそがアジアと世界の和平を破壊しようとした犯罪人であったとする反軍閥思想が日本社会のあらゆるところで喧伝されていた。玉音放送のその日まで「神軍日本」の快進撃を告げていたラジオが、一夜にして言説を転じて「日本は軍人たち戦争犯罪人によって支配されていた」と追及し始めた。日本のために命を捨てて外地で闘ってきた根本たち旧軍人は民間人からも忌避されるような存在になり、当然、こうしたアメリカ占領下で軍事行動を画策すること自体が犯罪であった。
そもそも戦争行為は国家間の意思決定でなされたことであり、蒋介石が中国蒙古地区の邦人を手厚く帰還させた事実を知るにせよ、それを個人として命に代えても返さなければならない大恩と考えた日本人が、当時、根本のほかにいただろうか。
 ちなみに、根本が台湾に渡った翌年昭和25年(1950)には、同じく旧日本軍人で構成された白団(ぱいだん)が国府軍の軍事顧問として活動を始めた。白団は、同組織の団長・富田直亮旧陸軍少将の中国名であった白鴻亮から名をとった俗称で、正式名称は台湾政府軍事顧問団という。総勢80余名の同顧問団は、当時、アメリカからも軍事教官を招聘していた蒋介石の要請によって秘密裏に組織された軍事指導者たちで、その活動は1960年代末まで約20年に及んだ。彼らも根本と同じく、密出国によって日本から台湾に渡ったものだが、蒋介石から軍事教練を附託された旧日本軍閥の、いわば非公式のビジネスという側面もあった。彼ら白団も、かつて日本が統治した台湾への情理から台湾を助けようという義の精神を奮起させたことに相違はないはずだが、決してボランティアではない。少なくとも、根本のように一切の利に関わることもなく蒋介石に招かれたわけでもないのに純然たる義の想いだけを頼りに命がけで密航した個人ではなかった。
 先に述べた通り、敗戦後の日本で英雄から一転して社会から阻害される立場に置かれた旧日本軍人たちが、自らのアイデンティティを求めて白団に「生きる場所をみつけた」と想像しても事実には反しないだろう。
 しかし、根本は違った。根本は蒋介石の恩義に報いるための「死に場所」として、誰にも告げることなく台湾に向かったのである。
 
険しい海路を密航した果て、台湾の基隆(キールン)に辿り着いた根本たち一行が即座に国府軍に逮捕・投獄されたことにも明らかなように、当初、根本の義勇の作戦は、国府軍はおろか蒋介石さえ「知らなかった」のである。
中国共産軍の攻勢に敗退を余儀なくした国府軍の戦況を知った根本は、たとえ微力であっても蒋介石総統に尽力したいと密航を決意、渡航費を工面するためにコレクションしていた骨董品を売り払うなどの金策を始めた。
その最中、根本のもとに国民党立法委員の「黄節文(こうせつぶん)」なる人物から手紙が届く。彼女は、昭和11年に病死していた国府軍の要人でかつて根本と親しかった黄郛(こうふ)の娘であった。その手紙には「根本閣下のお力が必要なのです。助けていただけないでしょうか」と、逼迫した国府軍の様相が痛切に滲むかのメッセージが込められていた。
しかし、経済的にも精神的にも疲弊しきった敗戦直後の日本で、根本の荘厳な決意を実現させる資金を得られる術はなかった。悪戦苦闘の根本のもとに、「国民党の密使」と名乗る中国人青年・李ヌ源(りしょうげん)が現れたのは、昭和24(1949)の4月初旬のことだった。李ヌ源は、「密航の手配はすべて整えているので根本閣下には来て頂ければいいのです」と告げる。
なんとしても台湾に渡ろうと必死だった根本にしてみれば、先の黄節文の手紙と李ヌ源の登場によって、苦境が一気に打開されたのであり、それが国民党の正規の軍略によるものなのか、個人個人による台湾防衛の想いがある種運命論的に重なっただけの偶然であったのかを思料する間もなかったことだろう。事実、根本が元部下であった通訳たちを連れて李ヌ源らと密航船に乗り込んだのは、李ヌ源が訪ねてきた約1ヵ月後のことだった。
そして、台湾・基隆に到着した根本は、国府軍に逮捕監禁されて、李ヌ源が国民党の密使ではなかったことを初めて知るのである。
そのため、根本が「台湾を助けるために国府軍のお役に立ちに来たのだ」と主張しても、基隆現地の警備担当者たちは一笑に付していたという。ところが2週間後、根本台湾上陸の情報が国府軍警備司令官に伝えられると、司令官自らがその夜のうちに車で台北を発ち、根本を迎えに来たという。基隆の監獄官は知らなくても、国府軍高官の間では根本博の人柄と実績は敵ながら英雄的に認められていたのである。
こうして国府軍に歓待された根本は蒋介石との再会を果たし、正式に金門島での軍略指揮を務める「顧問閣下」となるのだが、根本の任務は極秘であったので蒋介石自らによって「林保源(りんほげん)」という中国名が付けられた。
根本は敗戦時の蒋介石の義に感銘を受け、かつての敵を守るために命を捨てに来た。それを知った蒋介石もまた仇敵であった日本軍人・根本を国府軍の同志として迎え入れたのである。

根本が台湾に渡るまでの、これら概要に触れるだけでも、根本の行動律の中心にあったものは「義」の一字だけであったことがわかる。
そして義の思想哲学は、古代中国の思想家にして軍略家でもあった墨子が起源とされている。
ここで話は松本州弘に戻る。
前回、松本が子弟・砂生と共に開門した中国武術道場「興武館」について紹介したが、この前後の時期、台湾や東南アジアを往来していた松本は、すでに「金門島で作戦指揮を執った日本人将軍」の伝説を耳にしていた。
その秘された物語を松本に語った台湾の退役軍人が、根本博の名を知らなかったというエピソードは本書第1回で述べたが、根本は蒋介石が命名した「林保源」として国府軍指揮に着任していたのだから、それも道理であろう。根本が果たした実績は隠された戦史として「戦友」の間では語り継がれながら、決して台湾の公式な歴史に「根本博」の名は、現在に至るまで記録されていない。

松本は、初めて「伝説の日本人将軍」について聞かされたときの心情をこう語っている。
「私も無学ながら白団のことは知っていました。台湾には頻繁に行ってましたから。しかし、そのときは根本中将のことを知りませんから、名も残さないのに戦歴だけが語りぐさになる人物とは如何なる人なのかと非常に強い興味と同時に、これこそ義の神髄だと敬意を抱きましたね。
というのも、私は、まあ大陸浪人のようにアジアを渡り歩いているなかで、自然と墨子の思想というものを文献や人間関係のうちに意識し始めていましたから、義とはなにか、また自分自身が義に生きるため、義に死ぬためにはどうすべきかなんてことを、暮らしに追われながらも堂々巡りに思いあぐねた時期でもありました。そんなときに『日本人将軍』の存在を聞かされて、当時、名も知らなかった根本中将に対して畏敬の念を抱いたんです」

松本と少なからず語らいの時間を経てきた筆者の個人的な印象ではあるが、松本は中国武術の道を辿りながら、深奥では自らの死生観をはっきりとした「かたち」として求めていたように思える。ここでいう「かたち」とは、それこそ松本が信奉した墨子の残した義に関する言論であったり、具体的な義の実践という意味になる。
私が門田髀ォ氏著作のノンフィクション『この命、義に捧ぐ/台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(集英社刊)で根本博の伝説を知ったとき、ほとんど霊的に松本州弘を想起したのは、根本のような義に基づく死生観こそを松本も追い求めていたに違いないと感じたからだった。

そして、松本も根本の行動を義そのものであると讃歌を惜しまない。
「国語的に義というと、なんとなくその意味が雰囲気としては表現できますが、では実際に義とはなにかと端的に返答できる人はそういないと思います。私だって義を一言で述べよと言われると困ります。これは墨子が説いたことですが、義というのは行動を伴って初めて価値があるものなんですね。
たとえば、いまも子供のいじめが社会問題になって、その度にマスコミでは評論家やら感想家が、分析や対策を意見されますね、実に理論的に。ただ、義に生きようと決めたなら『そう思っていた』『こうすべきだ』では嘘になるんです。自分自身がそのことに対して、どういう行動を示しているのか。それが義ですね、たぶん。
根本閣下の義というものは、理屈じゃないですよね。わかりやすい言い方なら『熱い男』ですよね。根本閣下は、私のように義とはなにかということを理論的に突き詰めたりはしなかったと思うんです。もちろん、彼はエリート軍人でもあったわけですから、ただの猪突猛進ではない。いわゆる軍の偉い人ですから、戦中のあの時代は、庶民からも畏怖されるような立場にあったはずですが、伝記を読んでみるとまったく飾らない人柄で、一兵卒から民間人にも人望が厚かったようです。そういう人物が、寡黙に命を捨てに行ったんですから、これは壮絶な義ですよ。でも、きっと根本閣下御本人はそうは思っておられなかったでしょう。おそらく、義が彼の自然だったからです」
こうして松本は、根本の物語の詳細を知る以前から、金門島に対する一種の憧憬を募らせていた。
中国共産党と国民党の対立から開戦した国共内戦で、一時は壊滅寸前にまで追い詰められた国府軍を、当時の現有勢力だけで戦略の指導をもって戦局を逆転させた根本の歴史的な偉業の原動力は、唯一、多くを語らずとも蒋介石と結ばれた義にあった。
松本は、そのような「熱い男」たちの義が結実した金門島に自身の足で立ってみたいと夢想するようになっていたのである。国共内戦が冷戦状態に入ってからも、台湾の対中国軍事拠点である金門島の厳戒態勢は続いており、一介の無名の男が立ち入ることはおろか金門島の情報を得ることさえ不可能である。
松本は、中国武術道場の看板を降ろした後に、青春期よりの思想と言論を重視した社会活動を再開する。この時期、松本は義を説いた墨子についての論考を重ね、また孫文の大アジア主義を軸に中国、台湾、韓国、日本を同質民族と捉えた独自の理論「アジア同質主体民族主義」を展開する。

松本は小規模ながら事業を営んでいた。しかし、内実は他人任せのビジネスであり、いわゆる武家の商法で事業は早晩に破綻した。
一方、道場も入門費も指導料も格安だったこともあり経営が思わしくない。また入門者も頭打ちとなっていた。収入がなければ経営が成り立たない。諸般の事情が重なり合い、結果、松本は道場の一時閉鎖を余儀なくされた。
だが、その他にも、松本には武術から身を引くべきだと意を決する理由があった。

道場閉館に至る2ヶ月程前。松本は砂生に声を掛け、久し振りに深夜の乱取り(実践的稽古)をした時のことである。
松本の目からみた砂生の拳技は、「中国唐手道」の道に入ってからめきめきと上達していた。同時に、「中国武當派唐手道」は、己の内にある「気」をより高めることに役立つ武術でもあった。中国の武術はすべてから「気」の法を取り入れているが、砂生が生まれつき身につけている「気」の高さが、中国武術によって更に気の「位」を高めたようであった。
元より中国武術は、技を繰り出す瞬間の呼吸の使い分けにより、拳や掌の威力が極端に倍加する。吐く息、吸う息に気を入れ、深浅縦横に使い分ける中国武術の妙である。ことに「中国唐手道」の寸経(すんけい)という高度な技は、相手の身体の僅か一寸の距離からの打撃でも爆発的な威力を発揮する。
その技は、繰り出す拳と腕力もさることながら、スーッと吸い込んだ息を途中に止め、腹を引き締めつつ、フッと息を吐き出す一瞬に、右足の太股の筋肉を引き締め、ドンと床を踏み抜く気迫をこめて、一寸先の距離の相手を突くものである。この打撃の瞬間、相手の身体を突き抜けた「向こう側」を標的にするように打つ。つまり、本来は打撃の的とすべき相手の肉体よりも「先」に向けて、吐く息と共に相手の身体に拳をズンと打ち込む。すると、繰り出した拳は相手の身体に表層を打つのではなく、内部にまでダメージをめり込ませるのである。
この寸経という技は、相当な熟練者が初めて習得できる技だが、これに打たれた相手は、一間も二間もふっ飛ぶという想像を絶する拳技である。
砂生が生まれ持った呼吸の整息が既に「気」であった。中国武術に接して砂生の内から漲るものが、「気」であることに砂生自身も気づいた。砂生の「気」は中国武術を習練するたびに高まり、松本の師でもある洪師範より習得した寸経にも磨きがかかっていたのだ。
砂生の「気」が彼の内部で昇竜の如く高まっていた、まさにその時期、松本は事業と道場経営に喘ぐ塞いだ気分を一新させようと、久し振りに砂生を稽古に誘ったのだった。

砂生は言う。
「この話は、今日まで誰にも話したことはありません。館長の積み重ねた誇りを傷つけると思っていたからです。しかし、館長から林さん(筆者)には何でも話してよいと言われ、また既に林さんが館長から話のさわりを聞いたというのでお話しするのですけどね」

松本と砂生の乱取りは久し振りだった。乱取りはいつものように砂生は持つ技を自由に松本にぶつけ、松本は砂生の繰り出す技を捌くだけで自分からは技をかけない。
何年経っても砂生の技は松本に通じない。巨大な壁が目の前に立ちはだかるようで手も足もでない。時折、砂生のかけた技を捌いた松本の掌が流れて砂生の脇腹に入ると、腰から力が抜けて床にしゃがみ込む程に戦意を喪失してしまう。

砂生は語る。
「私の技は館長には通じません。全て去なされてしまう。私は館長と対峙し、いつもの通りぶつかっていきました。館長との乱取りは常に30分から1時間に渡ります。相互くたくたになって床に倒れるまで終わりません。
いつものように館長に私の技は捌かれてしまうのですが、目をこらすと館長の右の肩に「隙」が見えるんです。私は館長がわざと隙を見せていると思って、他の技をかけては館長の構えをみますが、どうしても右肩に隙がある。
そして、私が館長の身体に身を寄せて、避けられるのを承知で寸経を放った瞬間のことです。館長がふっ飛んで道場の羽目板に叩きつけられていました」

松本の記憶も鮮明だ。
「私は立ち会う時には相手が誰でも真剣です。決して手は抜きません。砂生との場合も同じです。私の功夫は危険ですから砂生の身体に当てませんが、手を留めていても、真剣に闘っています。あの頃の砂生は2年間の間にもの凄く手が上がっています。元々『気』の高い男ですから、技に気が加わって拳や掌の力が倍増しています。久し振りに砂生と対峙して、その技の成長に瞠目しました。
成長した男を相手に、わざと隙なんて作れるものではないし、私の右肩の隙は、冷静な砂生の眼から見えた私の構えの僅かな隙だったのでしょう。打たれても仕方のない完全な私の敗北でした。私の仕事がうまくいってないからとか、考え事をしていたとか、冗談ではありません。仕合っている時、そんな甘い考えの入る余地はありません。確かに、私と砂生の乱取りには規制がありますが、真剣に仕合うことに変わりはありません。砂生の武術は仕上がったのです。
 打ちのめされて道場に転がった私の脳裏に、砂生との出会いから、私達の今日までの切磋琢磨の鍛錬の日々が走馬灯の様に過ぎりました」

松本の右の鎖骨にはひびが入っていた。
 深夜の病院で治療をした松本を家まで送った砂生は、怪我を負わせたことを松本に詫びた。
松本は、「お前は俺を超えたのだ。他所で倒されるくらいならお前に倒されてよかった。俺はまだまだ未熟な所があるのだ。いい勉強になった」と、砂生の拳技の熟達を非常に喜んだという。

 道場を閉鎖する前に、砂生は松本から道場を引き継ぐように言われたが、砂生は思うことがあって道場の引き継ぎを丁重に断った。
砂生は子供の頃から、自分の体の中に湧いている不思議な「気」を自覚していた。父や母の疲れた肩や腰を揉むときも、砂生がその個所に静かに手を当てると、そこから流れる何ものかが父母に伝わり、居眠りを始め、目を覚ました時には父母の疲労や倦怠感がすっかり癒えているということが日常的にあった。

 右肩の鎖骨に入ったひびで自宅静養をしていた松本のもとに、砂生は日参して文字通りの「手当て」を施した。砂生が松本の怪我した肩に手を当てると、ものの数分で松本の話が止んで鼾(いびき)をかいて眠ってしまう。手当ての途中でいつも松本が心地よく眠ってしまうので、松本が目覚めたときには砂生は帰ったあとで姿はない。そんなことが1週間続いた。
8日目には松本は自由に歩き、軽くウォーミングアップができるまでに回復した。医者に行ったのは思えば一回切りだった。
松本にとっても、砂生の強い「気」はある種の超自然的な不思議なパワーであると感じられたという。
このことは、後年、砂生が人々に前代未聞の「奇蹟」をもたらす予兆でもあったのだが、その詳細は本稿の終盤に明らかにしたい。

 砂生の拳が松本を打ったその後、砂生はあらたまって自らの人生観、生きる目的を松本に打ち明けた。
「人助けをしたい」と砂生はいう。中国武術の修業の中で呼吸法を学ぶことによって、気が充実し更に高まったことを砂生は確信していた。松本にとってそれは、もはや砂生を武の弟子として教えることがなくなったことを意味していた。そして、松本は武術の道から自らを退く決意を砂生に告げる。今後は武術を経てきたことさえ口に出さないとまで言った。松本は武術家としての自分に限界を見たのである。
共に中国武術の一門を開いた松本と砂生は、こうして道場経営から撤退し、それぞれが人生の新たな道程に向かおうとしていた。

しかし、人助けを標榜した砂生には、武術のほかに松本から学ぶべきものがあると考えていた。それは松本の思想である。
武を修練しながら日本民族としての思惟を重ねていた松本の思想哲学的な知見を、砂生は学ぼうとしたのである。
日本人として日本民族の進むべき道標を己の心に置き、己の意思を精神的に安定することによって初めて人助けの道を歩める。中途半端な精神構造では「気」の進歩はない。砂生はそう考えていた。
松本も砂生の真摯な向上心を受け止め「俺には思想をお前に教える資格などないが、何か得るものがあると思うなら一緒に勉強しよう。だけど俺は今、素寒貧だぞ」と笑った。
こうして砂生は、道場閉鎖の後も松本の背中を見て歩くことになった。
松本の思想に共鳴し、その著作の下調べで幾十回と国会図書館へ足を運び、校正を手伝ったりもした。

砂生は言う。
「館長は武道家である前に思想人なんですよ。アジアの中の日本として、日本はどうあるべきかの思惟が大アジア主義に至っていくんですね。日本やアジアについて、いつ出版できるかも判らない原稿に向かっている館長を見ていると、何故かその背中が淋しくて哀しくなって涙が止まらないんです。仮にも中華民国国術會という国家機関から『漢光二等奬章』という勲章を授与された武道家が、武の道を断ったんですからね。
でも、まあよく書いていましたね。館長は大酒飲みでしたが、机に向かうと朝まで一睡もしない。弁当を持っていくと、もう十枚以上の原稿があがっている。その中の幾項目に赤線が引いてあって、その部分について図書館で調べるのが私の仕事です。哲学書というのは高価なんですが、館長はどうしても欲しいんですね。顔を見れば私には判る。買ってくると喜んでね…」

松本は、酒も食事も書籍も旅も、砂生に支えられて自由闊達にして深い思想的活動を続けることができた。
そして、1982年(昭和57年)、松本は台湾において論文「救中国学台湾」を上梓する。同書は、松本が独学で研究を重ねた大アジア主義思想と、それに基づき、中国と共栄するかたちでの台湾の自主独立を提唱した論考であり、当時までの松本の思想哲学の集大成ともいえるものだった。
この著書が台湾の政治家や軍人に高く評価されたことによって、松本は金門島への上陸を許可されることになる。

次回は、松本と師弟・砂生が直に見た当時の金門島について回想してもらう。

(文中敬称略)
posted by AK at 21:34| ノンフィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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