2010年12月24日

義の島−台湾・金門島の秘史と現代日本の忘我C−             筆者:林天外               

4.要塞・金門島

 道場を閉じた後でも砂生は松本に私淑し続けた。松本もことあるごとに砂生を伴って台湾に出向き、古き友人関係を中心として、そこから広がった中国人社会との交流を重ねていた。
 そして、思想言論活動を旺盛に展開していく松本が、台湾で発表した一冊の本によって、松本と砂生は昭和57年(1982)当時戒厳令下にあった金門島に台湾の非公式の国賓として招待されるという奇跡的な体験を享受することになるのだが、そのエピソードを読者に深く理解して頂くために、松本が事前に語ってくれた注釈を引用しておきたい。

「いまからおよそ30年前、私の拙文『救中国学台湾』がどうして台湾で出版されて、後に公立図書館にも収蔵されることになったのか、日本の人たちには『特別なコネでもあったのか』とよく聞かれますが、そうではなく、まったくの成り行きでしかありません。
確かに当時、私は台湾に(民間人の)友人が大勢いましたが、政府筋の関係者は皆無といってよく、また軍関係者とのつきあいなども僅かでしかありませんでした。ただね、むこうでは友だちが仲の良い友だちを呼んで、屈託なく人の輪が広がるんですよ。まあ、その後のつきあい方は人それぞれになりますけどね。そういう台湾、中国人的な感性というのが、私を意外な方向に導いてくれたんじゃないでしょうか。」

「台湾の人は酒席が大好き、というより民族的な文化といってもいいくらいですが、むこうで親しい人たちと孫文の話や私のアジア観なんかを恥ずかしながら披露しているうちに、誰かが『それは本に書いたほうがいい』と薦めてくれたわけです。長い月日が掛かりましたが、まとめてみたら、友人が出版社に段取りをつけてくれまして出版されたわけです。そこには特別な力や理由はなくて、強いていうなら『日本人で孫文や蒋介石をわかっているやつがいるぞ』というような親近感、友情が人を介して広がったということだと思います。」

「日本ですと、偉い人は偉い人だけで銀座なんかで呑むわけですが、中国人は偉い人も若い人も場末の飯店で同じテーブルを囲んでワイワイやることが珍しくない。もちろん、礼儀として後輩は先輩を立てるし、偉い人は『上座にかけてくれ』とまわりの者に乞われて『じゃあ、失礼して』なんて感じで座る。日本みたいに偉い人が偉そうに振舞ったりすると、顔には出さなくてもとたんに軽蔑されるのが中国人社会です。
先ごろの上海万博にしてもね、中国という国はなんでもバーンと大きく出たがるように思われますけど、それは中華民族国家の外向的な顔としてであって、個人としての中国人は『俺は何様だ』とか『実は私はこんな顔を持っている』なんて自己宣伝する人間を一番嫌いますよ。ほんとに凄い人なら説明されるまでもなく社会に広く知られているわけですからね。逆に彼らには、自分のことではなく自分の友人のほうを大きく立てる美風がある。
私の論文が台湾で望外の評価を頂いたことは誇りに思いますけど、それは中華民族の、友情を感じた相手を徹底的に立ててくれるという、彼らの精神文化があってこそだと思いますね」

松本のこの分析は、正鵠を得ているだろう。

さて、松本自身が「成り行き」という経緯で書籍化された彼の論文集「救中国学台湾」は、当時の台湾社会から絶大な評価を得ることになった。
 その様子を当時、常に松本の傍らにいた砂生が回想する。

「館長(松本)の本が出回ってしばらくしてから、台北を中心としたマスコミが館長を取材するようになりました。『自由中国の声』というラジオ局のアナウンサーや新聞、テレビ局まで来て館長のインタビューなんかをやるんです。いまも台北にありますが、国立中正紀念堂という蒋介石の巨大な像があるところですね、あの前で撮影して。当時、館長もなんだかよくわかっていなくて、暇だからとホテルでテレビをつけたら自分たちが画面でしゃべってるんで驚いちゃいましたからね」
 
砂生もまた松本に師事するだけあってというべきか、学生のときから武道一途の自称「石部金吉」で、自己顕示欲や功名心に縁がない人物であることが窺えるなんともユーモラスな話である。

 斯様に台湾のニュースとなった松本の著書は、自ずと台湾の政界にも伝播するに至った。
 当時、蒋経国(中華民国第6期、7期総統・蒋介石の長男)内閣にあった国防大臣の王昇将軍も松本の論文を読んで感銘を受けたひとりであった。

王昇将軍は、自身も「國父思想(日本版は『孫文思想』)」と題する思想論文を上梓している論客でもあり、松本の評価を仄聞した王昇将軍がその本を手にしたのも自然なことだったろう。
 王昇将軍は、松本の文章を中文に翻訳した台湾の翻訳家に向けて松本宛の手紙を書き、それに添えて酒と自著「孫文思想」を贈呈した。そのとき、日本に帰国していた松本は台湾の友人たちに催促されて、王昇将軍からの手紙と贈呈品を受け取りに台北へとんぼ返りする。
 中国語で書かれた王昇将軍の書信を通訳してもらうと「一度、ぜひともお会いしたい」旨が丁重に書かれていた。驚いたのは松本である。「友人の薦め」で本を出した一介の日本人に、台湾の国防大臣が個人的に敬意を表してくれた上に、面会してくれるというのだ。
 
 数日後、国防部の将官が乗った黒塗りの高級車が、ホテルに滞在する松本を迎えに来た。緊張気味の松本が通されたのは、台湾総督府の中にある王昇将軍の執務室だった。
 松本に惜しみない賛辞を贈った王昇将軍は、「武術道場のほうはいかがですか」と意外なことを尋ねた。さすがに一国の軍部のトップである。事前に松本の情報を掌握した上でのことだった。
 松本は自身が携わった小規模の事業が破綻し、その余波で道場を閉じた顛末をそのまま話すことをためらい、恥じながら「経営状況が芳しくありませんので、停滞しております」と吐露すると、王昇将軍は「私になにかお手伝いできることはありませんか」と水を向けた。
王昇将軍にしてみれば、孫文を深く理解し、中国と台湾、総じてアジアの未来を真剣に論考する日本人が困っているなら、助け舟を出してやろうかという心境であったかもしれない。
ところが、と砂生は言う。

「驚きました。館長は誰もが予想しないことを口にしたんです。わたしは一瞬、あっ、館長言ってしまったなと思いました。館長は、バッと立ち上がると『もしも叶うのでしたら金門島への渡航をお許し頂ければ無上の喜びです』と王昇将軍に言っていたんです。
最初、王昇将軍は一瞬、『は?』という表情で、ぽかんとした顔をされた。『この男、バカじゃないのか?』という感じですかね。将軍は館長がほかのお願いをすると思ったんでしょう。そりゃそうでしょう。一介の日本人が金門島に何故、行く理由があるんだって話ですよ。」

松本にとっては、まだ名を知らない根本将軍を胸中に追慕しての金門島上陸は金に代えられない栄誉だったはずである。いまでこそ観光地のひとつになった金門島だが、いかに金を積んでも1982年当時の金門島に民間人が渡ることなど不可能であり、軍部でさえ限られた要員しか立ち入れない地だったのだ。
しかし、王昇将軍は「なぜ金門島なのか」とは松本に問わなかった。想像の域を出ないが、王昇将軍は松本の言論活動に鑑みれば、金門島の重要性を正しく知る希有な日本人であることを洞察していたのではないだろうか。

王昇将軍は「ご要望に沿いたいから、しばし時間を頂きたい」と松本に回答し、松本らは一度日本に帰国した。
約1ヵ月後、台北から松本の金門島訪問が許諾されたとの一報が届けられた。松本は砂生を伴って、駆け足で台北に舞い戻る。
そして、1982年某月某日、台北のホテルで待機した松本と砂生、台北の友人で通訳の黄氏の3人を、台湾国防部の将官たちが迎えにやって来た。
この日付について、松本は「私たちの金門島上陸は、あくまでも王昇将軍の厚意による特例で、極秘のことでしたから、私も写真はおろかメモさえとっていません。お話の概要くらいは、もう時効だと思うから初めて人に話しているんですが、そんなわけで渡島した日月すらも機密事項の範疇です。せめて渡島した日にちはご容赦願いたい」と注釈する。

 同行した砂生が回想を継いで語ってくれた。

 「ある日、館長が『金門島が決まった。行こう』と何気なくいうから『あ、そうですか。いよいよ金門島行きが決まったんですね』なんて軽く返事したんですが、後から思えば本当に国家的な極秘行動ですからね。こりゃあ館長も大変なことをやらせたもんだなと、自分は館長の胸の内を理解してましたけれどすごいというのと同時に、金門島行きが実現したことに心の中で『本当かよ』と叫びました。
館長は、中国古代の思想家・墨子の義の思想を胸に深く畳みこんでいる人です。金門島で作戦の指揮を執った、日本の将軍の『義を貫き死してのち止む』の精神に感動しての金門島行きが実現したんですからね。嬉しかったと思いますよ。その時の館長、目がうるんでいましたよ。
私、思うんですよ、名も無き一介の日本人の思想家の思いをひと目で理解し、民間人など誰も入れない、入れない金門島最前線の軍事基地へ招聘して下さったんですから、王昇将軍という方は、誠実な、そして決断力のある方だったんですね。その御誠意に満ちたご案内を私たちはありがたく受けました。いま考えると、あの費用だけでも大変なものでしょう。
送迎の際には、軍の将官たちが常に数人は同行してましたから、車も2台で来てました。館長も自分でお願いしといて、ビシッとした将官が並んで高級車で迎えにきたときは、棒立ちになって目をぱちくりさせてるんですから。
当時は確か、産経新聞が台湾寄りで、金門島の取材を申請したことがあったと聞きましたが、それでも駄目だったんですからね」

 当日の午前中、送迎車に乗せられた松本らは、総督府で王昇将軍と再会してあらためて礼を述べた。王昇将軍は「ご無礼ながら私は執務でご一緒できませんが、ぜひとも金門島を見て来て下さい」と松本を送り出してくれた。
送迎車が着いたのは台北松山(たいぺいしょうざん)機場。機場とは空港の意で、1945年の日本の台湾統治が終わった後は、松山基地を併設する軍民共用空港として機能している。
 松山空港で松本ら一行を待っていたのは、国防部の特別軍用機だった。
 そのときの興奮を引き続き砂生が語る。

「その飛行機は双発の兵員輸送機でした。そんなえらいものが館長と私なんかのためにチャーターされたわけですからね。搭乗前には、有事に備えてと言われて、われわれも兵隊と同じ落下傘を背負わされました。館長と私と通訳の黄さん、軍側は4,5人の軍司令部の将官たちですね。
それで金門島に向けて飛び立ったんですが、途中で中共の戦闘機から攻撃される可能性があるとの情報入ったようで『緊急着陸します』と、1回、違う島に飛行機が降りた。台湾本土じゃなくて、小さな島ですね。あの海域は島嶼海域ですから、軍用機が離着陸できる設備があった島なんだと思いますが。
あとから聞いたんですが、私たちを乗せた輸送機と一緒に、偵察の戦闘機が一機護衛として飛んでいて、中国側の敵情視察をしていたんですね。それで、なにかの情報で『ちょっと危ない』ということで小島での待機となったんです。1時間半かな、それくらい待ちましたよ。クーラーなんかない軍用機ですから陸地でじっとしてると暑くてね。
 でも、よく考えてみますとね。いくら王昇将軍の厚意の決断だといっても、敵機が見えたなんて状況下のなかに、館長の願いを誠実に果たして金門島に連れて行くってことが普通じゃないじゃありませんか。約束したからには必ず果たすという尊義の精神ですよね、一国の三軍(陸海空)を指揮される王昇将軍の重みを感じましたよね」
 
 こうして一時避難した輸送機は、昼頃に金門島に着陸した。

「金門島の空港といいますか、正しくは滑走路なんでしょうけど、付近にハイビスカスのきれいな花がいっぱい咲いていたことは鮮明に覚えております。いかにも南国の風景なんですが、そこにズラッと戦車まで並んで、数十人の軍の人たちがジープで出迎えてくれたんです。厳戒態勢のなかでの賓客扱いですから、緊張しきりでしたね」
 
砂生の証言に刺激されたのか、松本が重たい口を開き、金門島に降り立った時の胸中を「感慨無量でした」と語る。
松本は万感胸に迫る思いの中で、一歩また一歩と島の土を踏みしめながら歩を運んだ。
名を知らぬとも、わが日本の将軍がこの島で戦闘の指揮をとり、激戦敵を駆逐してこの島を死守したことによって中華民国、いわゆる自由中国台湾の安寧を勝ち取ったのだ。と、中共軍に寸土も許さぬ気概をもって、勇敢に戦う国府軍の戦闘が松本の目に浮かぶのだった。
松本は、金門島で最初に見た情景を語る。

「私は金門島の土を踏んだ瞬間、なんて清潔に整頓された島なのだろうかと感じました。戦場(いくさば)に漂う静謐さというのですかね。島内の守備に任ずる将兵たちの姿は、国のための戦いならば、いつ己の躯(むくろ)を晒しても潔しとする凛然たる軍人の気概面貌に満ち、武士道の精神が島内の隅々まで漲っていることが感じられました。
金門島の第一印象は、蒋介石総統より受けた恩義に報いるために、死して悔いなき尊義の精神を心において戦に身を投じた日本の将軍の、清らかな生き様を映しとったような潔白さです。まず、その清々しい佇まいに心が捉えられました。
それで、迎えのジープに乗って道を行くと、金門島は全体がひとつの要塞なんだとわかりましたね。
島ですから、道路も丘陵を掘って相当幅の車道が作られたもので、道路の両脇は壁のようになっているんです。切り通しというか、凹型ですよね。そのアスファルトの路面には敵戦車の侵攻を妨害する、せり上がり式の仕掛けが何ヶ所もあって、両壁には対戦車砲が装備されたトーチカ(コンクリート製の円形の屋根を持った半地上半地下型の防御陣地。ロシア語の軍事用語)がある。敵が上陸してきたらそこで戦車を足止めして、一気に対戦車砲で殲滅できるんだね。でも、見えないですよ、その対戦車砲は。壁に隠れるようにトーチカが設置されていますから、もう、完璧ですよ。それを目の当たりにして、まさに今、臨戦態勢なんだなという緊張感をヒシヒシと感じましたね」

金門島は、台湾に敗走していた国府軍防衛の最後の砦であった。それゆえに国府軍は、死守した金門島を完璧な要塞島に作り上げたのだ。松本らが見た奇襲装備としての対戦車砲などは、かつてこの島に中共軍を誘い込んで一掃した根本中将の戦術アイディアが根底にあるのでは、とも思われる。

 「ジープで少し行ったところで降りると『地下要塞に案内します』と言われて、司令部に行きました。島全体がまさに要塞で、攻撃にさらされないように重要な設備はすべて地下にあるんです。コンクリートの階段で地下は迷路のように何層にもなっていましたね。司令部で昼食に弁当を用意してくれて司令官たちと昼食をご馳走になったことを覚えています」

 砂生が「これだけは特に強烈に印象に残っている」と述べたのは、要塞・金門島の監視台に案内されたときのことだった。

「よく覚えているのは、要塞の監視台みたいな場所から中国側の厦門(アモイ)が本当に目の前に展望できたことです。『え?!ここかよ』ってくらい近い。こんな距離で戦争をやっているのかという驚きと、同時に、張り詰めた緊張感は当然だなという実感ですね」

松本もこの光景をよく覚えている。

「その頃、台湾海軍の特殊部隊では『蛙兵団』と呼ばれている部隊があって、大陸まで泳いで潜入するという作戦もあったくらいですから。目に見える対岸と戦争やってるわけです。空爆じゃなくて、大陸からの砲弾がこっちに届く距離ですよ。当時は確かに停戦状態ではありましたが、なにがきっかけで交戦開始になるかわからない戒厳令下です。
この1982年というのは、日本ではいわゆるバブル時代の始まりともいわれている時期ですかね。誰もが、カネとモノを追いかけて、またそういう消費のサイクル自体が実体経済とかけ離れた幻想のマネーゲームを、社会がまっとうな経済として評価しだした頃ですよね。
そんな肥え太った日本が40年ほど前までは統治していた台湾では、目に見える敵地の大砲と睨み合いを続けている。
金門島の光景に触れて、なんというのでしょうか、同じアジアの隣人、兄弟が命がけで民族国家の自決権を守っているという、凛とした感動を覚えました。と、同時に、ますます自分の国の太平楽に矛盾も感じたわけです。ここで闘った根本閣下たち旧軍人や、蒋介石総統に敬意をもっていた敗戦時の日本人の精神性はどこに行ってしまったんだという亡国の念ですね。もちろん、私自身もなにをやっているんだろうかという思いも込めてね」

 要塞・金門島の各所を案内された松本たちは、復路の飛行機も予定時間に離陸せず1時間以上待機することになった。偵察機から、100%安全だと司令官が判断できる情報が伝えられるまでは、日本人の賓客を輸送することはできないからである。
 松本たちが金門島に滞在できたのはわずか数時間のことであった。金門島を去るときの想いについて、松本はこう述べている。
 
「これは自分がものをわかっているというつもりで言うんじゃありませんがね、やっぱり日本と台湾の戦史の陰に人知れず咲いた義の思想のひとつの結実、その舞台となった金門島への私の憧憬は、皆さんの想像以上に濃密でしたからね。  
短い時間ながら、その地の風に吹かれた感動、そして黙祷を捧げながら立ち去るときのなんともいえない寂寥感は言葉にはできませんね。同時に、日本の現実の姿に対する、もはや取り返しのつかない焦燥、祖国のために英霊となった日本軍人の痛切な愛国心や遺骨収集を疎かにしている日本政府への怒りも込みあげてきました」

 しかし松本のこの希有な経験は、台湾は無論のこと日本のいかなる記録にも存在しない。
松本と砂生、通訳の黄や台湾の彼らの友人たちが、台湾国防大臣・王昇将軍の特別な計らいに感謝と敬意を払って、一部の親しい間柄との思い出話をしたほかには、これまで公言したことがなかったからだ。
また、披露したところで当時の中台政情を知る人ほど信じられる話ではなく、多くの日本人にとっては、そもそも金門島という地がアジアの近現代史において極めて重要なキーになっていることに無関心であるに違いない。

 筆者が、初めて金門島いや台湾の裏面史ともいえる根本中将の物語に触れたとき、松本を想起したのは、王昇将軍の松本に対する特例措置も、またひとつの「義」の返礼であったのではないかと直感したからだ。
 根本博の存在と名前も、現在の台湾正史には一切登場しない。それでいながら退役軍人や台湾の金門戦争の研究家や、当地の激戦区となった村・古寧頭の古老が、名を知らない日本の将軍(根本)の伝説を語り継いでいた。
 筆者がそう話すと松本は笑いながら手を横に振る。

「私のことなど、とても根本閣下の話と一緒にはできないよ。でも、あなた(筆者)の意見もわかりますよ。ものごとの裏には、表向きの情報や記録ではわからない『なにか』がいつもあるんじゃないかと。
大事なのは『自分の眼でみたもの』を軸にものごとを判断して、行動するという自己責任の概念ですかね。いまの日本は和平を勝ち取ったわけじゃありませんから、自分がリスクを背負って行動するというのが、本当にできていない人が多い。会社の不正の内部告発やら、幼児虐待の問題にしてもね。役人は『もし虐待じゃなかったら市民からのクレームが来て、人事査定の点数に響く』とまず考える。生身の人間を、税を払っている国民の守り役に立とうなんて考え方自体がないんだな。そこで2歳の女の子が殴り殺されようとしてるのにね。メディアだって、同じような事件が繰り返されているのに『2度とこのような悲劇が起きないように願いたいですね』なんて悠長なことを言ってるだけで、政官相手にまともに糾弾できない。虐待やらいじめリンチ殺人やら、弱者が犠牲になる事件が毎週のように起きているのにね。これがまともな社会ですか?

蒋介石総統の意見で天皇制は維持されて、大陸の兵と民間邦人が無事に引き揚げた。それを大義と感じて、国禁に反してまで台湾に密航して闘いに戻った根本閣下の義。これは、役人の訓戒処分どころじゃないよ、もし発覚してたら。そういう覚悟や行動が、いまの日本でどれだけ理解されるのか。
いや、もしも理解する日本人がいないというなら、まだ救いがあるんですよ。日本国民全体がぼけたのだ、といえばいいからね。
しかしですよ、今回、あなたとの対話の手がかりとなった門田さんの本(『この命、義に捧ぐ/台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』門田隆将著/集英社刊)も、大変評判で売れているわけでしょう。これは、日本人的な義の感性が現在でも求められているということで、義のなんたるかというのは、多くの日本人が、漠然とでも理解できているはずなんですよ」

そこで一息つくと、松本はこう言った。

「一番問題なのは、『わかっているのに、できない』ということなんですよ」

金門島の回想を訥々と勝っていた松本の語気は、現在の日本社会に言が及ぶと熱を帯びてきた。
松本は、根本中将の実話に触れる中で特に明石元長(あかしもとなが)に対する敬意と感動を惜しまない。明石は根本中将を台湾に密航させるべく、その資金を工作するために奔走した人物である。明石の資金調達が失敗に終わっていたならば、根本中将が金門戦を指揮することもなく、台湾も中共の手に陥落していたかもしれないのである。そして、明石元長は根本密航の極秘作戦を実現させるべく全精力を傾注し、根本らを送り出した二日後に急逝している。まさに命を捨てる尽力だった。いかなる戦記の英雄もたったひとりで勝利を手にしたわけではない。
この明石の行動と精神は、松本にとって自らを支えた砂生に重ね合わせる想いがある。
次回は、命懸けで根本中将を台湾に送り出した明石元長を語りながら、松本が言及する現在の日本人と日本社会が喪失した「義」についての考察を試みてみたい。


(文中敬称略)

posted by AK at 21:12| ノンフィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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